キリスト教では、この世の全てが唯一絶対である神の手によって創造され、また、神の手によって終わりがもたらされると考えられています。
キリスト教にとって『死』とは、人類の始祖アダムの犯した罪=『原罪(げんざい)』の結果であり、罪に対する罰であるとされます。
『原罪』とは、旧約聖書の「創世記」で、神が固く禁じていたにもかかわらず、イヴが蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べ、アダムもそれに追随した「人類最初の罪」のことです。
ユダヤ教では、この罪の概念は単なる神の罰「楽園追放=失楽園」や戒めと理解していますが、キリスト教では、この罪を「人間が生まれながらにして負っている神への罪」という意味にまで拡大した『原罪』という独自の概念をつくりました。
キリスト教では、イエス・キリストが十字架に磔(はりつけ)にされて処刑されることで、その犠牲をもって、アダムとイブが犯した『原罪』を償ったと解釈しています。
これを「罪の贖い(あがない)」=『贖罪(しょくざい)』といいます。
イエス・キリストは自力で償いをすることができない人間の代わりに、『贖罪』によって、神と人間との和解をもたらしました。
このイエス・キリストを救い主として受け入れるのであれば、神に救われる資格を特別に得られるといわれており、キリスト教ではこの『原罪』と『贖罪』が、教義の中心テーマとなります。
キリスト教では、死ぬことを『帰天(きてん)=天に帰る』や『召天(しょうてん)=天に召される』と表現しますが、直ちに天国へ導かれるわけではありません。
キリスト教では、その日や時刻は誰にも分からない『終末』の日がいつか必ず訪れるとされています。
『終末』とは、キリスト教において、世界の終わり、『最後の審判』や『救済』、永遠の命など、終わりに関する概念を指します。
キリスト教では、『終末』において世界は滅び、再生が起こり、全能の神による最終的な審判、『最後の審判』が行われるとされています。
聖書の黙示録には、『終末』における出来事が詳しく記述されており、キリスト教徒たちは、この聖書の記述に基づいて、『終末』に備えることが求められます。
キリスト教においては、終末における重要な信仰の一つとして、『救済』があります。
『救済』とは、神によって罪から救われ、永遠の命を得ることを指します。
キリスト教においては、『原罪』によって人間は生まれながらにして罪を犯す存在であり、罪によって断たれてしまった神との関係を、イエス・キリストの『贖罪』によって赦しを得ることができたとされています。
よって、『救済』は、キリストに信仰を持ち、罪を悔い改めることによって得ることができます。
キリスト教においては、神の恵みによって罪から救われ、永遠の命を得ることができるとされています。
聖書によると、イエス・キリストが再び地上に現れ、全能の神による審判が行われます。
この審判では、信仰と善行によって救われた人々は『救済』による永遠の命を受け天国へと導かれ、不信仰や罪によって裁かれる人々は永遠の苦しみを受ける地獄へと導かれるとされています。
これを『最後の審判』と言います。
『最後の審判』では、すべての死者が復活し、生きている者も含めてすべての人々が裁かれます。
キリスト教徒の墓石には『R.I.P.』という言葉が刻まれます。
これは、ラテン語で“Requiescat in pace”「安らかに眠れ」という意味です。
キリスト教徒は、墓石の下、土の中で安らかな眠りにつきながら復活を待つのです。