それは誰にもわかりません。
死とは、生きとし生けるものに必ず訪れますが、誰も死を自分の目で見ることは出来ません。
死ぬとは、生命活動が完全に停止することです。
死ぬと、体の機能は徐々に停止していきます。
たとえば、心拍が止まることで血液循環が停止し、酸素や栄養素が体中に行きわたらなくなります。そのため、細胞は酸素不足や栄養不足になり、徐々に死んでいきます。また、呼吸も停止するため、体内に二酸化炭素がたまっていきます。
死後、死体は死後硬直や死後変化などを経て、腐敗や腐朽が進行します。
細菌の繁殖や腐敗臭などが発生し、公衆衛生上の問題を引き起こすことがあります。
科学の観点では、意識や人格、記憶や感情は肉体の一部である脳が作り出しており、生命活動の停止に伴い脳がその活動を止めると、人は動くことも考えることも感じることも出来なくなります。
つまり死んだらそこで終わり、〖無〗になるというのです。
一方で、古今東西の様々な宗教は死後の世界が存在することを前提としています。
曰く、善行を積むことで楽園に行けるとされます。
キリスト教では『天国』、仏教では『極楽浄土』、イスラム教では『ジャンナ』と言います。
履き違えれば危険な思想になりますが、救われる人がいるのも事実です。
日本人の宗教観では、仏式のお葬式を執り行っていても、「天国でもお元気で」や「天国で待っててね」と言って、行き先はどうあれ、大切な方の死後の安寧と再会を願います。
日本人は「鰯の頭も信心から」と言います。
どんなものでも信じる人にとっては価値がありありがたいと感じるものだ、ということわざです。
大切な方が亡くなったとき、火葬され、写真でしかその存在を目にすることが出来なくなったとき、ふと何かをきっかけに思い出し、直接触れることや見ることはできなくても、感じることが出来るのであれば死は〖無〗であるとは言えないように思います。